夷隅郡境と夷隅川流域とそれ以外

海森 寄与師老です。新たな知見が得られたので改廃します。いすみ鉄道/小湊鐡道の上総中野駅⇔小湊鐡道の養老渓谷駅の間に峠とトンネルがあることは、何方かも書かれていらっしゃいますね。

小湊鐡道線上の上総中野駅⇔養老渓谷駅の間は確かに夷隅郡と市原郡(あえて旧称)の群境で、峠で、養老渓谷駅は市原郡なのですが、ではなぜ、養老渓谷の半分以上が夷隅郡大多喜町なのでしょう?問題提議だけして回答をしないのでは、読んだ方々が、混乱してしまうかもですね。養老渓谷は養老川水系です。夷隅川水系ではありません。

下図中肌色線内側が夷隅川水系です。海岸部小規模単独河川を除き、ほぼ夷隅群境≒夷隅川水系だということが解ります。養老川水系の上流部も夷隅郡になっているので、養老渓谷駅は市原郡なのに、養老渓谷の半分以上が夷隅郡大多喜町ということです。

この部分、夷隅郡の大田代、小田代、筒森、面白、小沢又、粟又、葛藤の各村⇒夷隅郡老川村だったところです。合併時に養老川にちなみ老川としたそうです。夷隅郡大多喜町本体に行くには何処を通っても峠(トンネル)ですが、市原郡とは谷筋で繋がっています。

図は夷隅郡境と夷隅川水系境

養老川水系の最上流部が何故夷隅郡なのか、歴史的に追いかけてみましょう。色々調べてみました。『歴史的に大多喜藩領だから』、というオチかと思ったら、全く違いました。

長生郡と夷隅郡との間に領域交換もありましたが、夷隅川水系と夷隅郡境を揃えるためだったことは明らかです。明治の頃まで、水利権の争いが日常的にあった様ですから、同じ水系を同じ役場で処理できる群境は理にかなっていたことでしょう。

では、長生郡と夷隅郡との間で領域交換までして水系と郡境を揃えているのに、市原郡との間で養老川水系最上流部の領域交換(というより割譲)をしなかったのでしょうか?

どうも、話が逆で、養老川水系が広過ぎ、市原郡1つに認めてもらう限界を超え、【端っこ】までは1つに出来ず、切り落としたところは元々夷隅郡だったのでそのまま、夷隅郡に、が実情の様です。1方県の意向で、旧夷隅郡大多喜町を将来の町村合併の際、夷隅郡で1番大きな町にするためのリソースにされたのです。

●~1590年 この地域は、勝浦正木氏か大多喜正木氏の領地だったと考えられる。どちらにしても、里見方の領地だったが、この両者の境界が定かではありません。

●1590年~1600年 この地域は、本多氏が大多喜藩に冊封された時に大多喜藩になったとする証拠は見つけられませんでした。天正18年という小田原攻め後の混乱期でだったでしょうし、勝浦正木氏と大多喜正木氏の境界を変更した可能性もあります。境界を変更した部分は徳川氏が1時的に召し上げた可能性もあります。しかし、安定後は勝浦正木氏と大多喜正木氏を共に攻めた、植村氏か本多氏の領地になったのは間違いないでしょう。どちらにしても、勝浦藩か大多喜藩になったということですが、この両者の境界も定かではありません。

●1601年~1868年 後に夷隅郡になる、大田代、小田代、筒森、面白、小沢又、粟又、葛藤の各村も、後に市原郡になる、麻生原、黒川、石神、戸面、月出の各村も、植村氏勝浦藩(後に、お家騒動で武蔵岩槻藩領地になりました)の領地であったことが明確です。養老川上流域は文化的、政治的、治水的、谷筋的にも分断していなかった。1686年に中流の市原郡本郷村との水運を巡って係争の際の文書には、夷隅郡筒森村、朝生原村と明記されており、この地域は全て夷隅郡であった。ただし夷隅郡で括られたのは、勝浦藩の領地だったからで、大多喜藩の領地だったからではありません。

水月寺義蹟8人塚の故事は1680年(延宝8年)のことですので、この期間内です。筒森郷(旧老川村)と外出郷(旧西畑村)で、同じ知行なのに境界争いがあっただろうか?境界争いがあったとして、養老川/夷隅川分水嶺ですから山林であって、農地ではありません。大勢に影響がないところです。さらに、役人を1人殺したとして(何処にも記録されていないが)、村人を9人も処刑するだろうか?刑死が9人だったとして、何故、8人塚?この部分だけでも謎が多いです。後世の研究を期待します。

別の話題で見つけた千葉大の資料(6~9ページを参照)

近世房総の山間村落

●1878年7月22日 群区町村編制法施行により市原郡と夷隅郡の境が確定。市原郡の領域が広すぎて養老川上流部は分割され、麻生原、黒川、石神、戸面、月出の各村は市原郡に編入。大田代、小田代、筒森、面白、小沢又、粟又、葛藤の各村は夷隅郡に止まった。

●1889年4月1日 市原郡の大久保、石塚、菅野、月崎、国本、柳川、石神、折津、朝生原、戸面の各村⇒市原郡白鳥村(小湊鐡道養老渓谷駅付近他)

●1898年4月1日 夷隅郡の大田代、小田代、筒森、面白、小沢又、粟又、葛藤の各村⇒夷隅郡老川村(養老渓谷温泉郷付近他)

●1954年10月5日 老川村、旧大多喜町、西畑村、総元村、上瀑村⇒夷隅郡大多喜町

●1954年12月1日 長生郡太東村+夷隅郡古沢村⇒夷隅郡太東町(太東が夷隅郡に)

●1955年7月20日 夷隅郡瑞沢村+長生郡土睦村+長生郡長南町の1部⇒長生郡睦沢村(瑞沢が長生郡へ)

さらに、夷隅郡大多喜町は他3ヶ所で夷隅川水系と夷隅郡境が不揃い部分があります。

山上神社と浅間山で市原郡(養老川水系)にはみ出た部分、R297の七曲りの斜面部分(夷隅川水系)で市原郡がはみ出た部分、長生郡長南町(一宮川水系)に接した一宮川最上流部分。

人は住んでいないかな?農地でもない様ですし、水利権争いは発生しないところだった?

また、勝浦市杉戸の中に夷隅郡大多喜町弥喜用飛び地が2ヶ所あります。夷隅郡市内で役場を越えた飛び地は珍しいです。市町村合併してしまえば、夷隅郡市のどの役場内にもある、住所表示の飛び地になり、ありきたりになるのですけど。

図は養老川水系。旧夷隅郡老川村は市原郡の方がハマります!自然誌的にですが。

この話が解って、なるほどそうか!とも思える部分もありました!夷隅郡大多喜町内でも1枚岩ではない、夷隅郡大多喜町本体とことばが違う、市原郡と繋がりたがる、上総中野駅からではなく養老渓谷駅から道順を述べる、など。

何方かは、夷隅郡大多喜町を、【房総のチベット】と述べていました。勝浦市、いすみ市は、【中国本体】なのでしょうか?だとすると、【中華民国】と、【中華人民共和国】ですか?さらに、旧夷隅郡老川村は、【房総のチベット】が合併した、【房総のブータン】ですかね?

【房総のブータン】は、【房総のチベット】より、【房総のインド】(市原市)との併合がお望みなのでしょうか?GNH(国民総幸福量)によると本物のブータンは経済的発展途上だが国民は幸せと感じているのです。夷隅郡大多喜町本体などにすがる必要はありません。夷隅郡大多喜町総意でなくても、地区だけで自主的に将来を決めることは出来ますよ。

市原郡が広過ぎで、1つの郡に認めてもらう限界以上だったのは昔の話です。今は1つの市が大きくても問題ないハズです。郡境はおろか県境を超えた合併もあり得る時代です。市原市になれば【千葉市の隣】ですよ!私にとっては、だから?ですけど。

千葉県山林振興

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