海森 寄与師老です。一般的に、【東京大空襲】とは、’45年3月10日の空襲のことです。東京都では《東京都平和の日》として制定されています。私も江東区に長かったですし、銭湯が好きだったため、背中を流してあげながら、地域の年寄りの話も良く聞きました。東京の下町でどれだけの悲惨なことが発生したのかは、ここでは割愛します。67年過ぎました。私は50歳なので、この戦争は知りませんが、風化させてはいけないと思います。
【東京大空襲】以外も多数空襲があり、もれなく付いてきたものに機銃掃射があります。爆撃機(米陸軍航空隊のB-29)はマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアンから飛来しました。通常の空襲では全ての銃座が機能しており、機銃掃射での被害も出たそうです。【東京大空襲】時は、後部銃座(チャールズ・ブロンソンも銃座手だったとか)以外は全て潰して焼夷弾搭載量を増やしたそうです。また房総半島沖に展開している航空母艦から護衛の艦載機(米海軍航空隊のグラマンF4F)も飛来したそうです。空襲帰路に爆撃機に爆弾や焼夷弾が残っていれば投下し、爆撃機が房総半島沖に出た後、護衛が終わった艦載機が残りの機銃弾を打ち尽くすために機銃掃射したのは房総半島です。東京帰りに夷隅郡、横浜帰りに安房郡だった様です。命を落とした方もいる様です。地形で興津漁港と思われる場所で機銃掃射のアメリカ側の記録映像を見たことがあります。漁船を狙っていた様ですが、逃げ惑う漁師にも発砲していました。
私の家系は、この戦争のこと語りたがらないのです。全て他人から聞き知ったのですが、当事者としての、詳細の質問をしてみると、明確な回答に吃驚することがしばしばでした。私のお袋は東京出身で、【東京大空襲】を経験しており両国で被災した様です。婆さんは木原線脇の田で、《はるた》の最中に機銃掃射されたそうです。親父は予科練の生き残りです。皆、この戦争で生き残ってしまったのです。だから語りたくなかった?と思います。親父は今頃になり、この頃のことを語る様になってきました。夷隅郡出身で予科練の同期が1名、1級下が1名いらっしゃいます。どちらの方も、勝浦の方で、有名で、ご健在です。戦争のことは語りたがらないのに、終戦後混乱のことは、聞いてもいないのに話します。
お袋は、『東京には食べ物がなかった!』と。婆さんは、『東京の愚連隊が来たぞ!』と。地域の農家が飼っていたヤギは、皆、殺され食われたそうです。血痕と毛だけを残して。漁港では落ちている魚を丸飲みしていたそうです。大原の旧地名は中魚落(なかいおち)ですが、陸に魚が落ちてる程、豊かという意味だったと知りました。日付が近い、3月11日には大震災も発生しましたが、そういう歴史も、あったということを忘れてはいけません。当時を偲び、小食にして、自分が食べる生き物を自分で殺してみるのも良いと思います。自分が太った分、無駄に命を落とした生き物がいる、ということを実感できると思います。東京(に限らず、余所者)の愚連隊になっていないか?考えてみるのも良いと思います。